内田樹『街場のメディア論』

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

よく耳にするメディア論とは違う角度から語っているので、面白かった。後半のコミュニケーション論については感動的ですらあった。

序盤は、学術的な論拠に基づいた語り方をほとんどしていない(著者の頭の中にはあるのかもしれないが、紙面では提示されていない)ので、議論がふわふわしている印象を受けた。20歳くらいの女子大生に対する講義をまとめた本だということなので仕方がないのかもしれない。内田樹という人については全く知らなかった。著者略歴には、フランス現代思想・映画論・武道論が専門だと書いてある(武道論なんて言い方あるのかw)。その意味で、メディアそのものの研究者では(多分)ない。人文学研究者としての社会学的知見と、様々な形で長らくメディアに関わってきた人間としての経験。それらに基づいたエッセイといった風味だった。

前半ではマスメディアの実際をあぶり出し、後半では読書論・著作権論・コミュニケーション論にまで言及している。

前半では「世論」についての考え方が興味深かった。
世論というものを著者は、「誰でも言いそうなこと」、つまり、「自分が黙っていても、どうせ誰かが言うのだから、言っても平気なこと」であり、同時に「自分が黙っていても、どうせ誰かが言うのだから、黙っていても平気なことであるといい、揺るがぬ事実であるのだが、自分の生身を差し出してまで主張しなければならないほどの切実な真実ではないものとして定義している。成る程確かに。
そして2ちゃんねる等における「名無し」としての発言も、「私は個体識別できない人間であり、いくらでも代替者がいる人間である。だから私は存在する必要のない人間であるという旨の宣言であり、その名無しとしての発言を繰り返すうちに、それは呪いのようにその人のアイデンティティを溶かしていくものであり、大変危険であると言っている。これは、名無しとして発言することもある自分にとっても身につまされる話であり、大いに納得する。ただ(せめてここでは個体識別のためにw)附言しておくと、ここでの問題の根幹は、その名無しの人々はそのアイデンティティの融解という恐るべき事態に自覚的でありながら、それでも良いと思っているのではないかということだ。私見だけど。

そして最後の方のコミュニケーションについての考察。
人間社会のコミュニケーションの本質は「ありがとう」という、贈与に対する返礼(反対給付)の義務を否応なく負ってしまうというところに、端を発するのだという。「ありがとう」が人間としてのコミュニケーションの原子であり素数であるということ。社会学的には基本的な話なのかもしれないが、本書で初めて明瞭な表現として目にし、印象深かった。別に努めて耳障りの良い表現にしようとしたわけではないのだろうけれど、コミュニケーションや社会の本質をすくい採ってみると、自然と優しい表現になってしまう。その辺りの展開が心地よく、そのこと自体に気付くことで、人類そのものに対して優しくなれる気がした。

更に読書論について。
この世界に流通している書籍の殆どはまだ所有者にさえ読まれてはいないという(おそらく厳然たる)事実。少し立ち止まって考えてみれば現代の書籍流通の仕組みからして当然だが、ここではそこのとを言っている訳でもない。積ん読バンザイという話。書棚とは「理想我」であって「前未来形」であるという話。本好きにとって「読みたい本」と「読んだ本」と「いつか読もうと思っている本」というのは、書棚の中では理想我の一部として等価であるという話。
出版業界は「本を買う人」と「本を読む人」のどちらの方を向いて仕事をするべきか。確かにそのあたりを再考する必要はあるだろうし、そうすることでやっと、著作権のなんたるかを語ることができるはずだ。価値はそのものの中にはない、と見出しタイトルとして断言しているが、まったくもってその通りだと思う。あ、これは別で書こうw

ともあれ、本を買うのを控えようかと思っていた矢先だったが、やっぱりこれからも本を買おう。BOOK OFFに持って行こうと思っていた本もやっぱり本棚に戻そう。良いタイミングで良い本に出会えた。